人の影響を受けやすいとは ~ブログ等 文章・発信を通じて~

人の影響を受けやすいとは ~「自分」がわからなくなる時・消耗したと感じる時~
自分の個性・強みに気付く近道は 人と接する事。 自分の答えは自分しか持っていない。 しかし、 自分だけ見えない部分、 人を通じてしか気付かない自分、 というものがある。 ...

この記事の続き・関連。
自分に合った環境を選ぶ必要があると気付いた話。

わたしの今の考え方を伝えておきたいので
表現を変えて、さらに綴ってみた。

全てに共通する大切にしている捉え方

「からだをほぐすのに、強い力はいらない」

からだをほぐすのに、強い力はいらない。
セラピストの選び方 セラピストとしての心構え クライアントとしての心構え あくまでわたし視点で、 わたしが大切だと感じている事。 そのうちの一つを綴ってみました。 ・・・・・・...

強い刺激のマッサージを好むのは、
本来のからだが求めるもの、「治す」ための
根本的な行動ではなく、
その刺激の快楽だったり、
「強い方が効く」という思い込みである事もある。

からだをほぐすため、
本来の状態に近づけるため、
必要な刺激を必要な個所に届けるため、
そんな時はもっと微細な・繊細なものしか届かないよ、
強い刺激は表面的なアプローチであって
奥・髄・本質には届かないよ、

そんな話。
(いいわるいではなく、本来の目的によって方法を選んでね、という事)

これはね、マッサージに限らずの話として
大切にしている部分。

たとえば
人間関係、教育、言葉(言霊)なども。

ただ。そんなわたしがどういう部分を影響受けてしまったのかというと。
「もみほぐしに強い力入りません」
そういいながら
「骨折るくらいの刺激でないと響かない人もやっぱりいるんだね」
同時に頷いているようなもの。

これは、自身が影響を受けやすいにも関わらず、
影響力の強い人やその文章・言葉にどっぷり浸かりにいったから。

世の流れ・バランスに想う

世の流れ的に

我慢、忍耐、自己犠牲などから、
傾聴、受容、寄り添う、見守る、

移り変わっている最中。

波長・振動・バイブレーションでいうなれば
大きな荒い波の揺れが、細かな繊細な振動に。

どちらががいい、わるいの話ではない。
今まで偏り・行き過ぎた部分が
どんどん中庸に・調和に、
そんなバランスを取りにいっているという事。

でもね。

そんな世の流れの中、
それを「生ぬるく」感じる側もあるという事。

ただね、
調和に向かう一方、
そうでない方向に進む側もある、という事。

(※バランスをとる、というのは
何も 差しさわりのない真ん中でこじんまりとする事が
バランスを取る、という意味とは違う)

影響を与える側・受ける側

最近の流れで感じる事、それは
色んなタイプの人が、混在する場が増えた事。

一昔前だったら、似た同士・共通項が多いもの同士が
集まる場の方が多かったと思うのだが

今では職種、趣味、性格や育った土壌、
そんな様々なタイプの人達が
ひとつの共通する事のために集い・交流し
行動を共にできる機会が増えている。

とても面白い流れになったと思う反面、
ちょっと気を付けたい点もある。

どの場でもそうなのだが、
影響を与える側・受けやすい側の人に
分けるならば、それは必ずセットになる。

繊細なタイプの人は、
強い方タイプの人に引っ張られてしまいやすい。
また、全体的なバランスを見て自ら寄る・引く事で
調節に気力を費やしやすい。

そのいい例が、わたしなのであるが。

ブログ等 言葉の影響・発信力

わたしの考え方・ブログ文章の傾向。

人を攻撃する・非難する内容にはしたくない。
本音で語る事と、人を攻撃する事、
それは違うと思っているから。

あえてはっきり言いきらない部分がある。
あくまで自分の解釈を書いているだけだから。

語り口調でいつも長々と書いてしまう。
ちゃんと説明と考えを書きたいから。

アクセス数・反響はあれば嬉しいが数字目標は不要。
自分が語る事に、どこかの誰かがヒットすればいいな、くらいに思っているから。

攻撃的、挑発的、戦略的なものにしたくない。
そこから周りに新たに必要のない争いまでも惹起し、
伝えてる本質からズレていくから。

しかし。
つい文章も長くなり読みにくいし、改善点満載。
多くの人に届けるにはなにより発信力が必要!

反響にこんなに差が出るのはなぜだ?
もっとインパクトのある言葉が必要なのだろか?
発信力のある人と自分が何が違う?

学べるものは学びたい。
そう取り組むうちに、結果や反応にもフォーカスしだしたのだが。

自分の意見を伝える事は批判?非難?

文章一つ、伝えるって、とても難しい面がある。

それは、書き手の意図と
受け取り側がどう受け取るかは全く別物だから。

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ぷんすかしたら読む記事。
まずは、わたしが素敵だと 感じた記事をご紹介。 「私たちは自分の力量以上に、物事の価値を受け止められない 」 シンプルに、ズバッと、 過剰に甘くも辛くもなく、 伝えた...

単に、自分のひとつの意見として
「これが好・き嫌い、~と思う」
それをどれだけ気を使って丁寧に伝えたところで
受け取り側にとっては自分への攻撃・否定された
と捉えられてしまう事がある。

いくら「Iメッセージ」にしたとて。

しかし、それも受け取り側の自由。

たとえば
「今、幸せですか?」

そんなキーワードひとつ目にしても、
ほっこりする気持で読める時があれば
悔しくみじめな気持ちになる場合がある。
その時の自分と対比して受け取るから。

だからね。
本当に響いてほしい人には、
わざわざ強い言葉を使わなくとも、おのずとヒットすると思っている。
書く側の自分としては、
攻撃も防御も どちらも必要なく綴りたいものだ。

攻撃的な一面を助長される

実際ね。
強い荒い言葉、バッサリした意見、
批判・非難を含む内容、暴露・衝撃告白的、
そんな記事ほど、人はやんやと集まる。(ように見える)

内容は筋が通っていて、伝えたい本筋もストレートに伝わるものもある。
表面的に綺麗な言葉だけで中身が伴っていないものに意味がない事もわかる。
ズバッとばっさりいく事で
沈黙している問題を白日の下に晒し、
人の論議の対象となり事が進む事だってある。

確かに、それもひとつ。
その文章の本質はどこか、いつも感じながら考えながら読んでいた。
自分の価値観ひとつ、思い込みなのかどうかの確認にもなる。

しかしね。
強い振動・刺激にさらされ続けると。
微細な・繊細な振動はかき消される。
価値観が広がる、というより、感化されたという自覚がある。

それは、自身の微細な感覚が感じ取れなくなったから。
ない・足りない、そう思うようになった。

書く内容や表現にする前に、
自分の考え方・立ち位置そのものがずいぶん攻撃的な方に寄った自覚がある。

助長したくない

そんなこんなを一周したが。
やはりあえて争いを助長する事はしたくない。
(これはわたしの性格特性・好みの話)

本音で伝える事・批判意見を伝える事と
非難・中傷・愚痴はイコールではない。

ただね。
人とは、争い事も楽しむ・面白がる面もある。
ゆえ、多くの人が巻き込まれがちなのだ。
攻撃したの・されたの関係性、
正義の味方、傍観者、
その流れをはやしたてる人、
そこに人がやんやと集まり、騒ぎが大きくなっていく。

もちろん、それとて狙っての事であろうが。

話の本筋を捉えて受け取れている人はどれほどいるだろうか。

わたし自身、聖人君子ではなく、
争いを望む・楽しむ一面がある。
お祭り騒ぎを傍観して楽しむ事がある。
はやしたてる側を楽しむ場面もある。
影響を受けた自分がどうなるか知っている。

だからこそ、助長はしたくない。

ただし。
これはわたしの価値観は関係のない事。
ただの事象。

そういう役目の人もいて、
そういう段階・プロセスの人もいて、その場が必要な人がいる。
だからこそ、存在している。
それだけの事。
沈黙している問題を白日の下に晒すには
ズバッとばっさり系もいいだろう。
そのおかげで明るみに出て、
人の論議の対象となり
事が進む。
それもひとつ。
そちら側は、得意な人に任せよう。

わたしは、混沌とした場を整える側でいたい。

さいごに

物事に、いいわるいは、ない。
表のはたらきがあれば、裏のはたらきもある。

印象的、行動的、即時性、改革、結果、
バッサリ、力強い、・・

言い換えると

表面的、短期的、支配的、破壊的・・・
そんな一面がある。

自分にはない・足りないと思う部分に
人は妙に惹かれてしまうもの。

ただ。

見えない世界を扱う立ち位置ならば。

微細な振動を扱う立ち位置ならば。

穏やかな世界を求めるならば。

自身の身を置く場所ひとつ、
発する言葉ひとつ、
時に振り返りたいものだ。

これも、経験してみてわかった事。
だから、経験したい人はとことんやればいい。

ただ、わたしと似たところがあると感じる方は、
ちょっと念頭に置いていただければ。

・・・・・

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