「感謝」という言葉に違和感を感じる人へ。

「感謝」について。

わたしが以前「はっ!」とし、
激しくうなずいた言葉がある。

「中島芭旺 」さんの言葉

動物や植物の命を頂きながら人間は生きている。
嫌いだけど食べるなんてひどい。
嫌いならたべなくていい。
好き嫌いを無くそうなんて、ひどい話。
命を頂くのだ。感謝して頂くだけだ。

(書籍からの抜粋文。
ネット上で一部画像があり、お借りしました)

◆「中島芭旺の見てる、知ってる、考える」より

 http://ameblo.jp/nakashima-bao/

そして。
「感謝」という話で記事を書こうと思ったきっかけの記事。

◆ アトピーアドバイザー桑野泰さんのブログ
「アトピーに感謝なんてせんでよか 」
http://ameblo.jp/atopi-plus/entry-12221076892.html

このテーマも
わたしが大切に想うところ。

何故かというと、
「病気」とこころ・生き方の話でもリンクするから。

しかし、ゆえに
その伝え方・解釈によって
方向性が様々だと感じる。

「感謝」は、
感じたくて頑張るものではない。
強要するものではない。

結果、湧き起こるもの。

感謝という言葉を自然と使える人は。
自分の想いや感覚・感性を素直にとことん感じ、
自分自身が満たされ、
そして素直に表現している人ではないだろうか。

自分の「感覚」「感情」。
そこをなくしては語れない。

過去に書いたネタを基に、
わたしの解釈を書き足してみる。

過去ブログはこちら(2015.11.9)
http://ameblo.jp/jibunnwoikiru-taiwa/entry-12097288229.html

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「お父さんお母さんに感謝しなさい」

「貧しくて食べたくても食べれない人も
いるんだから、食べ物を残すなんて罰が当たる」

「生きたくても生きれない人もいるんだから、
死にたいなんて言っちゃダメ」

わたしが子どもの頃、
こういう話はわんさか聞いてきた。
道徳の授業の話って、こういう切り口が
多かったように感じる。

確かに正論。
そして、今となってはわかる、
この言葉のいわんとする意味を。

しかし。
当時のわたしは、この文面は、言葉通りの
表面の意味しか汲み取れていなかった。

それはなぜか。
その伝える側の「経験」や、
わたし自身の「体験」をもっての受け取り
ではなかったから。

こういう話を聴いていた当時のわたしは、

「別に食べたくないのに」

「別に好きで生きてるわけではない。」

どこか納得できない、
そういう「反発」を感じていた。

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例。

「食べれない人もいるんだから、残さず食べなさい。」

「感謝していただきなさい」

これを、「たいわの視点」で通訳してみる。

①言葉を受け取るわたしの気持ち

「~~だから~~~しなさい」

→「でも。わたしは~~したくないのに。」

いわば、
目の前の「わたし」を大事に
してもらっていない感。

ここで話の例に出される
「食べたくても食べれない人」は、
わたしの意志、好き嫌いは関係のない話。

「今」自分にとって必要と感じていない
ものを強要されて、その場で感謝なんて
感じるはずもない。

結果、どうなるか?

申し訳ないという罪悪感、

貧しくて食べれない人への同情の気持ち・
今感謝など浮かばない自分に対し、
自分は非情な人間なんだと感じる、

~~できない、という自分への無力感、

「食べてくても食べれない人」、
というざっくりした言葉で、
かわいそう、自分より立場が下とか下とか、
ざっくり、そして確実なイメージ・偏見、決めつけ。

わたしが実際に感じてきたのは、
こういうもの。

②言葉を使う側の目的

この言葉を使う目的は、
目の前の出来事としての、
食事を残させないための「管理・強要」
ではないだろうか。

(一番奥の奥は、結局「愛」なのだがね)

教育する側・提供する側としても、
食事の大切さなどを伝えたい気持ちはわかる。

しかし、それがいつしか
「食事を残させない目的」に
変わってしまうと。

食べたくない人に「食べさせるため」に
「説得」が必要になる。

「食べれない、かわいそうな人」という
武器を使っての、脅しにほかならない。

そうなるとね。
本当に伝えたいはずの教え、
これでは何も伝わらない。

③「強要された側」

以前、いつまでも給食を食べきれず
掃除時間中も一人泣きながら
食べ続けていた子を思い出す。
以前なら、よくある風景だったろう。

自分は比較的好き嫌いも少なく
給食はおかわりもする子だったので
その苦労はなかった。

それでも今なら、わかる。

たくさん量を食べれない、
特定の物を食べれないという
「体質」があり、
またその時の体調や気分もある。
「食べれない人」にとって食事を
強要される事が、いかに辛い事なのか。

今のわたしが
その時の教育者と話ができるならば。
「食べさせる事」が目的になっていないか、
教育者としてどんな在り方・想いなのか
話を聞いてみたいところ。
きっと、その時の教育としては「正しい」
という信念はあったと思うのだ。

ちなみに。
その当時の子が
「だからかわいそうだった」とも
言うつもりはない。

それはそれで
その人の経験・学び・気付きとなって
いるはずだから。
より食事の大切さに気付く経験だったかもしれないし、
こっそり人にあげたりと対処できる知恵が
身に着いたかもしれないし、
すべてにおいて無駄はない、とも言える。

ただ、その経験が今でもなにかしら
人生の足かせのように感じたままなの
であれば。

そこからまた色んな解釈・気づきを得て
自分の強みに変えていける事を伝えたい。

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過去のどんな辛い出来事も、
すべて「感謝」に変わる時がある。

しかしそれは、
その時々に向き合ってきた結果にある
「今」が満たされてこそ。

言い換えると。

自身が「満たされていない」感が
あるうちは、湧き起こらない。

そして、「自分を満たすための方法」
としての「感謝」は、実は使えない。

むしろ。
虚しくなる。
さみしくなる。
悔しくなる。

でもね。

それを感じたとしても。

それすら「とことん感じる」と。

ちゃんと、大切なものを受け取れるから、
大丈夫。

・・・・・

人生、生き続けていくと。

すべての経験に無駄がない事、
失って初めてわかるありがたみ、
当たり前は、当たり前でない、
という事を実体験として学んでいく。

失ってからでは遅い、
今大切にできるものがある、
こんなつらい想いは、人にはしてほしくない。
自分と同じ失敗をする前に気付いてほしい。

だからね。
それを体験した側としては、伝えたくなる。

それを、それぞれの体験を通じ、
それぞれの表現をもって伝えていく。

今、色んな立場の人がブログや講演、本、
また過去の偉人の格言などもたくさん
知る事ができるようになった。

しかし。
どれだけその集約された言葉を
たくさん受け取ったとしても。
言葉の真意までも受け取るには
自分の経験をもってしてはじめて
受け取る事ができるのではないだろうか。

・・・・・

わたしが、感謝できなかった時期を
振り返ると

「今、食べたくないと思えるほど、
その時はおなかは満たされていた。」

「今、わざわざ必死で生きたいと思わないほど、
当たり前に生きる事ができている。」

ここに気付いた時、
わたしには「感謝」しかない。

今。
結果として、過去の言葉も
自分の気付きとして受け取る事ができる。

だから。
すでにこれまで歩んで事には何も
後悔はない。
これまで受けた教育にも経験にも、
わたしにとって無駄なことは何一つないし、
過去に戻ってやり直したい事は、さらさらない。

今だからこそ、わたしが語れることは。

もっとシンプルな言葉で、
体験で、
在り方で、
色んな方法で
伝えていける、
という事。

◆「多田ゆかさん」ブログ

http://ameblo.jp/yukan43/entry-12221337263.html

ご自身の経験から「生きる」とはを
伝えられる人。
医療、セラピー、生き方、心の在り方、
そういう話に興味のある方は是非
繋がってほしいと思う人。
(*‘∀‘)♡

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http://namonaki.net/page-90/page-8/