生きるうえで、本当の意味の「後悔」とは。

今、「やりたい事がわからない」大人が、
「やりたい事を見つける・やる」
というテーマの人と出会う。
それは、自分も散々そこを求め、
今に至るから。

そして、今思う。

やりたい事やった感があろうとも、
なかろうとも、
それすらすべて、
人生の経験であり、
気付きであり、
ネタである。
・・・

「人生、死ぬまでに後悔しないために」
というテーマ。

自分に正直に生きる、
自分のやりたいように、
生きたいように、
誰に遠慮する事なく、
やった後悔より、やらなかった後悔が残る、
そういう話。

しかし。
最近、わたしは思う。

「やらなかった事」、
それもいわば経験であり、
「後悔する」事すら、経験なのである。

「やらなかった・できなかった」からこそ、
「やらないと、後悔した。」と感じる。
~~しなかったから、今こういう人生。
つまりは、それも気付き。

やってみて気付く事。
やらなくて気付く事。
言い換えると、

「やらなかった」という経験があるからこそ、
人に「やっておくべきだったよ」
そう伝える事ができるわけで。
それって、
「やってみてこうだったよ」と伝える人と、
ただ、立ち位置が違うだけではないだろうか?
つまりは、
「やらなかった・やれなかった」すらにも、
いいもわるいも、感じない。

自分が~~しなかったから、
という過去の体験をいかし、
今度はそれを人に語り伝えていく。
ここって、人として、普遍的なところでは
ないだろうか。

どんな出来事からも、人は学ぶことができる。
学ぶために、わざわざ辛い事を
しなくてはいけないという意味ではない。
起こった出来事は、ただの出来事。
そこから何を掴むのかは、その人次第。
とてつもなく辛い体験をした人々は、
「その出来事を体験したからこそ、
学んだ」
また、
「その出来事を、
体験してよかったとは言わない、
出来たらしたくなかった。
しかし、それを体験したからこそ、
気が付く事があった。」

人にとって、本当の後悔とは。
何かを体験した、しなかった、という
ところではない。

「出来事」から何も学ぶことがなかった、
学びがある事すら気づいていない時、
自分が何も掴みに行っていない事すら
気付いていない時、

そんな状態を「後悔」と表現するのだろう。

・・・・・・

たとえばわたしが。

男性をとっかえひっかえ波乱万丈に
生きる人生は、武勇伝は尽きないし、

ダーリンいないよーほしいよー、
40年言い続けて、劇的な出逢い
なんてドラマティックで、

はたまた、一生誰ともな~~んにも
なかった人生。
そんな人生、ネタの宝庫過ぎるわけで。

そこから自分が何を想って、
何をして、どうなって何を学んだか、
どんなストーリーでも、面白くない
人生なんて、何もないのである。

(その人生が、傍から見て
面白い・魅力的に見えるかどうか、
結局は解釈とプレゼンテーションスキル?
かもしれないかな?)

という、真夜中のつぶやき。