「この世に○○がなくなったら困る」

「○○がなくなったら困る」

「この先、○○がなくなるから、それを見越していかないといけない」

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今や、様々な分野のお仕事にIT化の波。
この先「人間のする仕事がなくなる」なんて話もきくけれど。

企業に勤める事が安全だと信じている場合ではない。
今からすでに先を見越していかないといけない。
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それはそれとて。

わたしは、別に恐れる必要はないと思っている。

なくなったら、なくなった時。
そうなりそうなら、そうなりそうな時に。
人は、なんだかんだ、その時々で、なんとかするし、すでになんとかしてきているのである。

だからこそ、日々の自分の在り方。
日々の選択の基準はどこにあるのか。
日々の選択に自己信頼がない人が、
「いざ」という時のために「今」備えたって、そのいざその時には何の役にも立たないかもしれない。

という話。

結論は以上。
以下は、その説明を、多少脱線しながら ちまちま述べているだけです。
(*‘∀‘)

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たとえば、スマホ。

今、スマホが普及した結果、
必要性がなくなり、下火になったものも数知れずあるけれど。
必要性は少なくなったけど、少なくてもそのままニーズのあるもの、
既存のものが、対応できるように変化したもの、
新たにできる事・これからできると思われる可能性と。

ケータイが普及したのだって、そんな長~い長い歴史ではない。
それが今や、すでに「ガラケー」と呼ばれ、使用者は少数派に。
それは、スマホが世に出て、それがいいと求める人が多数派になったから。
そして、今なおガラケーが残っているのは、それがまだ必要であると選択する人がいるから。

ポケベルがでて、ケータイが出て、白黒画面がいつのまにかカラーになり、そして画質がきれいになり、お買い物もできちゃって・・・

何かのお仕事の「競争」という視点でみれば、確かに諸手を挙げて喜べない場合もある。
しかし、その当の本人でさえ、現在、その恩恵を受けているのではないだろうか。
言い換えると、あらたな選択肢が「増えた」のである。
これから新しい活用の仕方を試みてもいいし、
どちらにも全く影響を受けない事をしてみてもいいし、
これまでの既存の方法を続けてもいい、

既存の方法を続けたいけど厳しいなら、そこからまた変化していけばいい。

たとえば、雑誌。

オンラインで雑誌が読めたとて、結果、そうそう紙媒体はなくなってはいない。
むしろ、オンラインで読める時代だからこそ、紙媒体の良さも伝わる。
つまりは、こだわり派にとっても、こだわらない派にとっても、すべてにおいて選ぶ幅が広がったのである。
だからこそ、提供する側は、その立ち位置がどこなのか、その見極めを。

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この世において、一刻たりとも変化をしていない物質・事柄は、ない。
たとえ、伝統芸能・古典的な、昔からずーと変わらない・変えない・継承していく分野の話であっても、
変化する部分が必ずある。
伝える人が、いつかは必ず変わる。
その個人が生きていく過程において、年月も重ね、状況や価値観もかわる。
そして、受け継ぐ人が、変わる。
その事柄を、形を変えずして継承していくにも、形を変えないための工夫は、その時代によって色々変わるのではないだろうか。

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組織であっても、個人であっても、やはり世の変化はダイレクトにお金に関わるから、
恐れおののく気持ちもかわる。
が、しかし。
世の「お仕事」というのは、ニーズがあるからこそ。
自分が、いくら提供したいものがあっても、商売であるならば、
それを望んでそれを受け取ってくれる人がいなければ意味をなさないわけで。
その結果というのは、お金・人の流れとしてダイレクトに伝わるもの。
だからこそ、マーケティングとはなんぞを学ぶわけで。
消費者目線からいうと、対価を支払ってその商品を買うという事は、
売り手に対してのボランティアではない。
自分にとって必要なものを、よりよい形で、納得して買いたいもの。
ニーズがないにも拘わらず「誰も買ってくれない」と嘆くならば、
それは売り手側の怠慢ともいえる。
これは、日々の話。

時代が大きく移り変わる単位での話ではない。

提供する側の自分自身さえ、年齢や環境が変わり、経験が増えるほどに価値観も変わってくる。
変化があるのは、買い手も同じ事。そして時代も、すべて移り変わる。

これまでも、これからも、一定にとどまり続けるものなんてない。
生きるにあたり、自然と感じている部分であるはず。

 もし、そのIT化で今後無くなるお仕事がある、という話を聞いて、
焦りや、不安を感じたならば。

そういう情報が発信されると、どこが得するのか?これは誰にとって都合がいい情報?
そうなった時、自分にとって何がどうなる事が困る事?
そこをちょっとだけ頭に入れて、あとは自分の身の回り・足元を一度よく見渡してみるといいかも。

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原発がなくなったら、今までそこで働いていた人はどうなるのか。
たばこ業界がなくならないのも、その業界で働いている人がいるから。
戦争は、巨大なビジネスだから。
患者がいなくなったら病院は潰れる。

などなど。
このような箱モノ・巨大ビジネスがなくならない根本は、

「〇〇が無くなったら困る」人がいるから。

「〇〇が無くなったら困る」という考えは、
普通のお商売から考えたら、ありえないわけで。
一般消費者のニーズよりも、売り手側の都合。明らかに、方向性が違う。

患者がいなくなったら、看護師免許使えなくなって困る?
それなら、もう病気の人の事考えなくていいんだから、また他の興味ある事をやればいいだけ。
だから、不安にならなくて、いい。
わざわざ、お客さん(病人)を作る事はしなくていい。
(しかし、ビジネス的にできてしまうし、自覚なくても自然とセラピストが陥るところでもある。)

でもね。

それも、やっぱり、「選ぶ人」がいるから。
結局はどこかにニーズがあるから。

「選ぶ」とはそういう事。

今の世も、すでにこれまでの人々に選ばれ続けてきた結果なのである。

戦車や銃や迷彩服を見て、わくわくする人がいる。
心底、争いや戦いが好きな人もいる。
たばこがどんなに体に悪くても、吸いたい人がいる。
白衣の先生に診てもらってお薬を貰う事で、安心を得ている人もいる。

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たとえば。
からだによくないと謳われている加工食品関連。
だからこそ、今、人に・地球にやさしいお野菜や食事を作る人がいて、
消費者がそれを選ぶことが応援となり、
それを選ぶ人が増えたら、選ばれないものは自然と衰退していく。
わたしの想う「戦わずして、選択したいものをする」というのは、そういう事。
食も、教育も、医療も、政治も・・・・わたしは、こんな感じで、選択すればいいと思っている。
しかし、自分と同じ考えや好みの人ばかりではない。
だからこそ、この世は循環する。
だからこそ、自分の想像の範囲を超えた事が、いいもわるいも、あるわけで。
みんな同じ考えの人しかいなかったら、この世は成り立たなくなるのでは?

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わたしは。

今あるものを、「なくすために戦おう」とは思っていない。

自然の山や川があって、海と空ときれいな空気があって。
自然の美しさ、丁寧に育てられた食材、優しい料理。
しかし、それが素敵だと感じるのは、その対極の世界があるから。
多少毒された社会も、たまには美味と感じるものである。
生み出された便利さやきらびやかさも、大いに人を魅了する。

どんなに素晴らしいものでも、「それひとつ」しかないものは、魅力やありがたみにすら気づかない。

わたしたち人間は、その両方を味わう事が出来る。

わたしは、今は
アイスもお菓子も食べる。ジャンクフードも食べ、ファミレスにもいく。
優しい食事系も食べる。
愛情・手間暇かけたものを作っている人の応援も込めて商品を買う事もある。
スマホやパソコンも使う。

それは、今の世にあるものの中から、選んでいるわけで。

完全自然派の人から見ると、
大手企業から買って食べる行為は、「戦争に加担している」と言われてしまうだろう。
極論ではあるが、その部分は確かに否定はできないのである。
だが、それを述べ発信できている環境というのはどうだろう、一度振り返ってみてほしい。

すべてはつながっている。その循環を、もうちょっと大きな視点で見てみると。
自分につながりのないものなんて、なにひとつない。

ただ、そのつながりに気付いているかどうか。感じているかどうか。

わたしは、自分の好みで、自分のために「これがいい」と選ぶ。
それは、
どこかの誰かにとっては応援になり、
どこかの誰かにとっては否定になる。

でも、それでいいと思っている。

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ただ、その自由選択の中で感じる事は。
これまでの進化発展と、自然・生物の環境としての地球との、
そのバランスの偏り・ひずみが大きくなってきているわけで。
これまでもすでに、地球・自然からたくさんの警告を出されている。
このまま進むのか?気付くのか?
これは、我々人間に問いかけられている。

何事もバランス。
わたしたちは、何に生かされているのか?
地球から警告が出ているのはなぜか?行き過ぎた面があるからだろう。
まだ地球がチャンスをくれる間に。
選択基準を「〇〇が無くなったら困るから」ではなく、
自分が何を選びたいのか、何を選べば心地よいのか、
その視点で選び続けたいものである。