幸せですか?と聞かれると困る。~不幸ではないが、満ち足りていない感~

「不幸ではないが、満ち足りていない感」

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「あなたにとって幸せとは何ですか?」
「あなたは幸せですか?」

この質問をされるのが、とても苦手だった。
質問はとてもシンプルなのに、いつも答えに詰まってしまう。

「ただ、あること」
「生かされている事」
すべての事は、それだけでよい。
そもそも、もうすでに幸せ。
それはもう、知識としては重々に知っている。


では、そもそもなぜ「幸せ?」って質問があるのか。
それに対して、わたしが今「幸せ」と答えられる時・答えられない時があるのか。

それは、
幸せであると「感じている時」
幸せでないと「感じている時」(言い換えると、幸せであると感じる時が少ない)」
その違いだけではないかと。

「ある」のに、
自分が「無い、と感じている。」
「ある、と気付いていない。」

そして、個々それぞれのによって答えがあるのは、
幸せの「形」「定義」など、幸せ感を感じるポイントが違うだけ。
〇〇している時、癒される・安心している・わくわくしている等等・・・・

自分にはそんな幸せひとつもない、と感じている時、

すでに「ある」ものに気づいていない・忘れている時。
数はたくさんあるはずなのに、「自分のほしいものだけがないと感じている」時、
自分が必死で欲しがっているものを、「他人は当たり前に、簡単に持っている」と感じた時、
激しく虚しい想いがある。
そんな時、「わたしって幸せ」って、言おうとしても、言えない。
「あなたの幸せって?」と訊かれるたびに、わからない・虚しい・怒り等々・・・
その質問に対して、笑顔で返すのが精一杯。

そして、「幸せを感じれない自分」を、自分でさらに追い詰めてしまうもの。

しかし。
それは、今あるものに、自分が気付いてないだけ、という事。

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仕事もして、それなりに自立して、時間もお金も、それなりに自由に使っている。
しかし、どこかなにか、自分の人生を遠慮しているような、出し惜しみしているような。

「不幸ではないが、満ち足りていない感」

とある頃、この想いを抱えて過ごしている事が「生きづらいということ」と気付いたのです。

全ての事は、自分で選んでいる。
何も、首に縄を付けられ、引きずられて仕事をしているわけでもない。
社会人になってから、一人暮らしもし、休日の過ごし方もお金の使い方も自由にできる。
自分の好きにしているはず。
なのに、いまひとつぱっとしない人生。何か人生もったいない感がある。

よくよく紐解いてみると。
「大事な事を、自分の意志で選べなかった」
「自分の選んだものを、ダメと言われ続けて、いつしか伝える事を諦めてきた」

そして、いつしか何かを選ぶ際、自分の好き嫌いではなく、
「~~のために」「こっちのほうが安心」「仕方なく」

自分の、一番選びたい事は、選択肢からナシ!とされた状態の中で選んでいたわけで。
その自分の一番の選択がナシ、とされてきた事すら、すでに気付かないようになっていた。
だから、いくらその中から選んだとしても、しぶしぶ選ばされた感があったのはそういうわけで。

自分の好きで選べない、そう思い込んで生きてきた事は、
そう思い込まざるを得なかった経過があるわけで。
そこが、いわゆる染みついた生き方のクセ・思考パターンという部分。
そこに気付いたら。

「自分で、自分の人生選んでいいんだ」
「人から選ばされた・自分で選んでない、と思ったけど、それすら選んだのは、自分」
「選ばされたと思っていたのは、目の前に差し出されたものを選択しただけ」

ここに気付けば、これまでの人生の意味と、これからの過ごし方が変わる。

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「今、ここにあること・生かされている事」
その時点で、わたしたちはすでに認められていて、
すでに幸せであって、
それだけでいい。

しかし。
「それがわからないから、そう想えないから、しんどいんだ!」
そうもがきつづけてきました。

世に言われるそういう言葉を、体感がないからこそ、体感したくて、頑張ってきました。
しかし、最終的には「いくら説明しても体感しないとわからない」と言われてしまい、
「体感したくて頑張ってるのに、どーしてわからないんだ!」と自分に悔しく思ってきました。
しかし、それも自分で体感してみると、その説明は、その通りなんだな、となるのだけれども。

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生かされてること、ただありのままへの感謝の気持ち、これは強要されて感じれるものではなく、
自分が満たされた時に、自然と湧き起こるもの。

しかし、その気持ちをいつまでも持ち続けたいと思っていても、
日常の中でいつのまにか「当たり前」になっていきます。
だからこそ人は、
それを思い出したり、そこを見つめたりする時間や機会を自ら持とうとするのではないでしょうか。
そして、それは特別な事・体験からでなくて、日常のどんなことからでも、結局はそこに気付く・受け取る事が出来るのです。

どんな昔からすごい人が宇宙の真理だとか人生とはなんぞや、そんな答えをたくさん説いて、書物なんぞもたくさん残してくれているけれど、
しかし、いくら教えてもらった事・伝えてもらった事も、
結局は「自分が経験」しないと納得しない。
そこが人間の面白いところでもあるし、めんどくさいところでもあるのだと感じています。

結局は、あらたに外のどこかにあるものを探すのではなく、自分の持っているものに、気付く・想い出す・・・それだけの事。

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それをふまえた上で、生まれてきた目的とは。
わたし自身、「楽ちんに生きるだけが目的」で人間をやりにきたのではないと確信しています。
だから生きづらかろうが、切なかろうが、そんな想いも体験しにきた。

(人生のメインを楽しみに来た人とか、学びに来た人とか、誰かを助けに来た人とか、目的は人それぞれのようです)

辛い事、悲し事、怒り、もやもやも人生のスパイス・学び。

といっても、わざわざ辛い事なんか経験したいとは思わない。
わざわざ追い込む選択をしなくていい。
それでも、やっぱり辛い事悲しい事は、避けて通れない。
だからこそ、その時に自分がどうするか、どうしたかという事から、後に気付き・学びとなっていく。

そんなこんなを想いながら、わたしは今を生きています。